2月12日

ウエブサイトを周遊していたら、ゲーム音楽を聞かせるサイトを見つけた。
いくつかのゲーム音楽を聴くと、懐かしさのあまり涙がこぼれそうになる。
たとえばクラシックのような高尚な音楽に心を揺らし、その知識を持っているという事は、
一般に受け入れやすい音楽を愛好する姿であるかもしれない。
しかし、自分はあるいは陳腐で単純でしかない電子音の組み合わせにもっとも心動かされる。
何故か。

それは恐らく、自分がその音楽を脳裏に刻み込むと同時に思い出を享受しているからであると思う。
あの音楽を聴いていたとき、そういえばこんなことがあった。匂いすら思い出す。
この音楽を聴いていたとき、となりにはあの人がいた。
そういえばこの音楽が流れていたのはこんなシーンだった。ゲームのキャラが画面のストーリーを越えて物語を紡いでいた。

誰もが持つそのような音楽の中で、自分はたまたまそれがゲームの音楽だった。
殊に自分はファイナルファンタジー6,7,8の曲。そしてロマンシング・サガ2,3だろうか。
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# by kakasi0907 | 2006-02-12 18:11

2月11日

自分の夢は、この世界から貧困を無くすことだ。

将来に希望を持てず、幸せな生を送る事を難しくする貧困という現象に、友達や両親、親しい人や大切な人が陥ることも嫌だし、自分が陥ることも嫌だ。そして、自分とはまったく関係の無い他人が貧困に陥る事も自分には到底我慢ができない。

いろいろな自己分析を通じて、ようやく自分が本当に何がしたいのかがわかった。
声を大にして言うと笑われてしまいかねない夢だが、自分がそう思っている事は間違いない。
人が利害関係の中のみで動くという考え方は、わかりやすく、人を納得させやすいけれど、自分は自分の夢を、利害関係の中で語りつくすことができなかった。
子供が駄々を捏ねているような話だが、間違いない。
自分の夢は、この世界から貧困を無くすことだ。
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# by kakasi0907 | 2006-02-11 18:09

2月6日④

”自分”と”他人”と”親しい人々”に線を引く事ができない、とはどういうことだろうか。

それは、自分が他人の陥っている状況に容易に陥りうるという意味だろうか。
それとも、純粋に自分と他人と親しい人々が同じだという事だろうか。
後者の場合、他人とは言え、どうしても見殺しにする事ができない自分がいる、という点がキーになっている気がする。見殺しにできない以上、他人もまた親しい人と同じになる。

あるいは、自分が幸福な状態にあるのは、他人の犠牲の下である。という考え方もある。
その場合、責任が生じる。
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# by kakasi0907 | 2006-02-06 07:02

2月6日③

自分が貧困削減にかかわる動機は少し見えてきた。
が、この動機はあまりにも個人的過ぎる。自分がこのような動機を持っているという事を示す事によって、共感を得られる事はあるかもしれないが、あくまでそれどまり。

自分勝手な存在が気ままに生きているこの世界の中で、他人の”生の楽しみ喜びを追求する手段”を補填するために、自分勝手で気ままな存在がお金を払う事に賛成するようになる為には、彼らを説得する論理が必要になる。

ロールズの正義論。
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# by kakasi0907 | 2006-02-06 06:58

2月6日② 1月31日 改訂

純粋に、自分は生きていることが楽しいようだ。
絶望したり、苦悩したり、失敗したり、喜んだり、病気にかかったり。ネガティブな事と、ポジティブな事が起こりまくる生そのものが楽しいようだ。
また、親しい人大切な人と一緒にいたいと願う心、彼らが幸せであってほしいと思う心がある。

そんな世界が自分は好きだ。親しい人々が幸せに生き、すべての人間が生そのものを楽しむ事のできる世界を守りたいと思う。

貧困状態にある人々は、生を楽しむ事ができるだろうか。わからない。ひとついえる事は、彼らの場合、生の楽しみを追求するための手段が、貧困状態にない人々と比べてはるかに限られているという事だ。

自分は、貧困削減にかかわりたいという思いを強く持っている。
この想いがいったいどこから生じたものか判らずここ最近思い悩んでいた。
この想いを持ち始めたのは何時ごろからだろうか?バングラデシュの体験が思い当たる。

大学の先生の誘いでバングラデシュへ行った。
そのころの自分は可能な限り幅広い体験を求める一般的な大学生だった。
生きる目標、この目的のためなら、あるいはこの規範のためなら命をかけていいと思えるようなものを捜し求めていた。

バングラデシュ二日目、自分は車に乗っている時、体中を病に侵された男が車に近づいてきて、窓から手を入れて物乞いを始めた。自分は窓を閉め、手を締め出し目をそらし彼らを見ないようにした。
車はマーケットに向かい、ほどなく到着した。マーケットはものごいの人々であふれ、自分は彼らに囲まれた。一人は干からびた赤子を抱えた女性だった。ぼろぼろの衣服を身にまとっていた。自分は彼女たちにお金を払わなかった。彼女たちはどこまでもついてきて、最終的に自分は空を見上げて、彼女たちを視界に入れないようにした。
自分は自分自身と彼ら物乞いの人々、体験に衝撃を受けた。

帰国後、気がつくと自分は貧困削減に関わりたいという想いを強くしていた。
全てに何故の目を向ける必要がある。

①何故車の窓を閉め、目をそらし男を見ないようにしたのか。
まず、男の姿に衝撃を受けた。男の体は、大小のぶつぶつで覆われていた。また、その男の目が印象に残っている。暗い目をしていた。旅行の主催NGOの職員が、物乞いにお金をあげることはやめろと言われていた。一つには、お金をあげる事で、物乞いは一時的に貧しくなくなるが、彼を貧困たらしめている根本的な原因が解決されない限り、結局彼は貧困状態から抜け出すことができないからだ、と。また、物乞いをしている限り、貧困から抜け出すことは出来ないからだ(お金をあげれば、また物乞いする)、と理解していた。自分はそれに従い、お金をあげることはできないと伝えた。しかし、彼はあきらめず自分にお金を求めた。自分は耐え切れなくなって、窓を閉め目をそらし男を見ないようにした。しかし、それはお金を求める男を振り切るためではなかったように思う。たぶん、自分は男の姿が見るに耐えなかった。

②何故男の姿が見るに耐えなかったのか?
とにかく、哀れだった。ぼろぼろの服を着て、本当に毎日物乞いをしているんだな、という感じがした。彼の前に将来が開かれていないような気がした。幸福の尺度はわからないが、自分が幸福と感じるようなことを彼はできない、と感じた。目が、本当に耐えられなかった。なんというか、希望が感じられなかった。誇りもなかった。人がこのような姿になりえるということが信じられなかった。男がかわいそうだったし、自分や、自分の親、自分の親しい人がこうなってしまったらどうしよう、と思った。そして、自分は男をどうすることもできなかった。助ける能力を持っていなかった。

③なぜ自分はマーケットで空を見上げたのか?
物乞いの女性が見るに耐えなかった。だから目をそらしたが、どこまでも視界に入ってきた。だから空を見上げた。②と同じように、自分はこのような人々が存在するという事が本当に耐えられなかった。

④なぜ自分は衝撃を受けたのか?
生の喜び、楽しみを追求する事のできない人々がこの世には存在する、という事。自分や自分の親しい人々も、容易にこの状態に陥りうるという事。この現実から目をそらそうとする自分。その自分に嫌悪感を覚えている自分。心のどこかでNGO職員を偽善者だと思っていた自分と、現実から目をそらそうとする偽善者以下の自分。

⑤なぜ自分は親しい人の幸せを、他人と呼べる人まで広げようとするのだろうか。
たぶん、自分は他人と親しい人々に線を引く事ができない。
うまくいえないが、線を引く事が本当にできない。

自分は、自分の生きている理由として、この世で生きていることが楽しいという事を挙げる。また、同時に、親しい人大切な人が幸せである事を願っている。
バングラデシュの体験の中で、生の喜び、楽しみを追求する手段を著しく奪われている(ように見える)人々の存在を知った。同時に、自分たち、自分の親しい人々も、そのような状態に容易に陥りうると思った。また、同時に自分は”自分”と”他人”と”親しい人々”の間に線を引く事ができない、と感じている。
だから自分は、自分と自分の親しい人々、他人、つまりすべての人間が、生の喜び、楽しみを追求する手段を十分に持ち、楽しく幸せに生きていくことができる世界を作りたいと思った。

この思いが、貧困削減に関わりたいという想いを形作っているのだと思う。
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# by kakasi0907 | 2006-02-06 06:41

2月6日

銭湯に行ったら、レモン風呂の日だった。湯につかると肌がぴりぴりした。

就職活動を続けている。今日リクナビからエントリーしようとしたら、メンテナンス中とかでしばらく使えなくなった。がっかり。

そういえば自分はなぜ生きているのだろうか。
自分はインドで死を恐れた。また、生の中で絶望に陥ることを恐れた。
人の存在の大本には、食物を喰らい、睡眠をとり、排泄し、子供を造り、子供を育てる肉体がある。絶望も不安も快楽も喜びも感動も、いつか訪れる死も、すべてこの肉体が生み出す生命の爆発だ。
だが、それがわかった所で答えは出ない。自分はなぜ生きることを選択するのか。

肉の本義からすれば、子を作り次世代を残すまでは生きなければならない。
子を作れば、子を守り育てる。そのために生きることになる。
しかし、自分は肉の本義を全うするために生きているわけでは無い、と思う。

あるいは、肉の本義を全うすること=子を残すことではない可能性もある。
別に子を残すことを選択しないでもいいはずだ。

もしかしたら、この世には生きる意味は存在しないのかもしれない。
かと言って自分は死にたくも無い。なぜだろうか。

純粋に、自分は生きていることが楽しいようだ。
絶望したり、苦悩したり、失敗したり、喜んだり、病気にかかったり。ネガティブな事と、ポジティブな事が起こりまくる生そのものが楽しいようだ。
また、親しい人大切な人と一緒にいたいと願う心、彼らが幸せであってほしいと思う心がある。

この感情はどこから生まれてくるのだろうか。
とりあえず、こう思っていることはたぶん間違いない。
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# by kakasi0907 | 2006-02-06 03:08

今気づいた

自分は、国際協力にあこがれる自分、国際的な舞台で働きたいという憧れから国際協力を行おうとする自分からは、おそらく卒業した。
自分は、自分の感じる問題意識のために動いている。間違いない。

しかし、問題意識がまだ明確になっていない部分がある。
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# by kakasi0907 | 2006-02-05 04:17

2月4日

昨日のイライラがまだ晴れない。

飲み屋でうるさくして、不快に思った客が切れた。
謝ったが、不十分だと言い帰れと言われる。
帰るのは嫌だから、勘弁してくれ、と言うと嫌だと言われる。
謝って、これから静かに飲む、というだけでは自分の気が晴れない、そしてお前たちが気に入らないからだ、との事。

面倒なのは、この切れた客がかなり酔っていた事、そして、自分の通っている大学の関係者か何かだったという事。
会話の中で、自分と同じ大学だということが判り、大学院生かな?と思って聞くと、バーカ!と強い口調で言われる。それより上の立場らしい。

帰るのは嫌だから、謝るから勘弁してください、と自分は言う。
自分の立場を明かしたら、お前はびっくりする、というニュアンスの発言を客がして、自分が別にいいですよ、と言うと、彼が大学の関係者だということが判った。
その様な立場にある自分に逆らっていいのか?というニュアンスの発言をそのあとされた。
自分は別に良いと思ったので、謝る事は当然するが帰る事は勘弁してくれと告げた。
まったく聞く耳を持たず、自分の謝る態度に文句をつけ始める。そこからは堂々巡りになる。
店の店主の意見を聞いてみよう、で、帰るか帰らないか決めよう、みたいな話の流れになったので、店主に聞くと、反省してますし別に帰らなくてもいいんじゃないでしょうかねぇ、との事。すると、店主の言葉のニュアンスから、自分には店主の本心がわかる、との発言。店主はお前たちに帰ってほしいと思っているはずだ、との事。

堂々巡りの中で、(大学の関係者という)自分の立場を聞いて、お前つまり自分が態度が変わった、というニュアンスの発言をされる。自分は正直言って、最初から最後まで同じ態度だった。

なんというか、バカと言われたこと、自分の立場を傘にかけるような態度をとられたこと、自分の態度が変わったなどといわれたことに、どうしようもなく腹が立ち、また同時にがっかりした。

イライラの原因が、書くうちにはっきりした。とりあえず、この問題はここまで。
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# by kakasi0907 | 2006-02-05 03:51

2月3日

今日は大変な一日だった。

節分の豆まきをするために近所のコンビニを回ったがすべて売り切れていた。
駅前のデパートまで行ってようやく見つけた。クラブの仲間と豆を投げ合った。

そのまま飲み屋に行く。話題が盛り上がり、自然と声が大きくなる。
すると客の一人がキレて、文句をつけてきた。出てけと言われたので、出てくのは嫌だったので、なんとか話し合いで方をつけようとした。
むこうも酔っ払っていて、中々建設的な話にならない。どうしようもなくなって、どうしたらいいか途方にくれていると、近くで飲んでいたおじさんが仲裁に入ってくれた。
おじさんが仏に見えた。感謝をどれくらいしたらいいのかわからない瞬間。

飲みは再開をすると、ただでさえイライラ来ていたのに、さらにイライラする話題になる。
かっこ悪い発言を聞いて、ぷっつん。

恐ろしい気分になって、そのあと一言も喋らなかった。
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# by kakasi0907 | 2006-02-04 01:18

1月31日

今思っていることを二つ。

自分は大学祭実行委員会に所属している。
今日今の大学祭に不足しているものを考える機会があった。
大学祭に不足しているものは、その祭りの中心となるリチュアル、儀式であると思う。
村の祭りで、みこしを担いで大騒ぎする。参加する人々は、その大騒ぎに参加する中で、自分が村の一員であることを再発見する。
もし、新しい企画、大学祭の中心となるような企画を考えるならば、学生すべてが参加することが可能で、参加することで自分が大学の学生であることを再発見し、その大学の学生であることのよろこびを見出し直すことができるような企画を作るべきだと思う。

自分の興味。大学生であるうちに、一応の答えを出さなければならないこと。
それは、「なぜ、貧困状態にある人を助けなければならないのか?」という問いに、答えを出すことだ。
「どうすれば、貧困をこの世から根絶できるのか」という問いは、そのあとだ。
いや、むしろ、前者の答えを明確化することこそが、真の意味で後者の答えであるのかもしれない。

今日あったことをひとつ。
大学祭で関わったごみ収集業者から、料金請求が来ず、決算が滞った。
状況を確認しようと、ごみ処理業者に連絡したら、すでに請求書は送られていて、しかも支払済みとの事だった。話の中で、大学がこのごみ処理業者にすべてのごみ回収を任せていること、例年、祭り期間中のごみも全て請求は一括して大学管理部に行くことがわかった。
普通ならこちらに回ってくる請求書が、管理部のほうで勘違いがあったか何かで、委員会まで回ってこなかったようだ。
会話の流れの中で、これらの事をはじめて知った。理解に時間がかかってしまい、要領を得ない発言を電話の中でしてしまった。また、なんども保留し、一度電話を替わった。
向こうの経理は不快感を覚えたようで、たらいまわしにされているようなんですけど、そっちが大丈夫?と言われた。少し落ち込んだ。
向こうからは、こっちの現状が判らない。こっちはほとんど何もわからない。理解に時間がかかってしまったことは、自分の能力に問題があるのだろうか。わからないが、そこまで自分が悪いとも思わない。双方に、想像力があれば、不快感は生まれなかったのに。
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# by kakasi0907 | 2006-02-01 00:02